短い回答
=>
のすぐ外側の{}
はオブジェクトリテラルです。オブジェクトリテラルはスコープを作成しないため、=>
のスコープはトップレベルのスコープです。よって、=>
内部のthis
はトップレベルでのthis
になります。this
が外側のスコープと異なる値になるスコープを作成するのは、次のパターンだけです。
※上記はMDNでの表現を用いているため、下記の仕様書での表現や対応が一部異なります。
長い回答
※ 長くて複雑なため、JavaScriptの仕様がどのようになっているのか興味がある人だけ読んでください。
この回答はECMAScript 2024に準拠しています。異なるバージョンや実装によって細部が異なる場合があります。基本的には厳格モード(strict mode)についてのみ解説し、特に言及していない場合は厳格モードを前提とします。非厳格モード(non-strict mode)での動作については詳しい解説は行いません。
仕様書では言語処理でのみで使用されるいくつか特殊な概念があります。これらは言語処理の内部のみでのみ使用され、スクリプトのコード上では直接使用することができません。実装上も存在せず、同じ動作をするようエミュレートしている場合もあります。以下はその解説です。
- 抽象操作(abstract operation) ... 関数のような処理のまとまりです。抽象処理名()と表記します。
- 内部メソッド(internal method) ... オブジェクトに対して内部でのみ呼ばれるメソッドです。[[メソッド名]]と表記します。
- 内部スロット(internal slot) ... オブジェクトの内部状態を表すプロパティのようなものです。プロパティとは違いプロトタイプチェーンで遡ることができません。[[スロット名]]と表記します。
- レコード(record) ... オブジェクトのように名前と値の組(フィールド)とメソッド(抽象メソッド)をもつ内部でのみ使われるデータ構造です。
- フィールド(field) ... レコードに保存されている名前と値の組です。[[フィールド名]]と表記します。
- 抽象メソッド(abstract method) ... レコードに対するメソッドのようもので、呼び出すことで抽象的な処理を行うことができます。メソッド名()と表記します。
「アロー関数(arrow function)ではthis
が文脈的(lexical)に束縛(bind)される」とは一体何かと言うことを理解するために、実際にthis
がどのように評価(evaluation)されるのかを見ていきます。
よく「スコープ」という言葉を使われていますが、仕様上は環境レコード(Environment Record)と呼ばれるレコードです。環境レコードの移り変わりや外側からの継承がスコープの範囲やクロージャーを実現しています。環境レコードは5種類あります。
- 宣言的環境レコード(Declarative Environment Record) ... ブロックの環境レコード。
- 関数環境レコード(Function Environment Record) ... 関数内部の環境レコード。
- モジュール環境レコード(Module Environment Record) ... モジュールのトップレベルの環境レコード。その外側にはグローバル環境レコードになります。
- オブジェクト環境レコード(Object Environment Record) ...
with
構文で作成される環境レコード。with
構文は非厳格モードでのみ使用可能であるため、厳格モードでは現れません。
- グローバル環境レコード(Global Environment Record) ... モジュールではない場合のトップレベルの環境レコード。全ての環境スコープの一番外側になります。
これらの環境レコードはthis
に関する二つの抽象メソッドを持っています。
- HasThisBinding() ... 環境レコードが
this
を束縛している場合は真(true
)を返し、そうで無い場合は偽(false
)を返します。
- GetThisBinding() ... その環境レコードが束縛している
this
を返します。(HasThisBinding()抽象メソッドが真になる環境レコードでのみ実装されています)
それでは実際の処理を見ていきましょう。this
が評価されるとき、ResolveThisBinding()抽象操作が呼び出されます。ResolveThisBinding()抽象操作は次のような処理です。
- GetThisEnvironment()抽象操作を呼び出し、環境レコードを得ます。
- 1.で得た環境レコードに対してGetThisBinding()抽象メソッドを呼び出し、得られた値を返します。
GetThisEnvironment()抽象操作は次のような処理です。
- 実行中の実行文脈(running execution context)の文脈的環境(LexicalEnvironment)を取得します。これは実行している場所の環境レコードのことです。
- 取得した環境レコードに対してHasThisBinding()抽象メソッドを呼び出し、真偽値を得ます。
- 2.の結果が真の場合は、その環境レコードを返します。
- そうでは無い場合は、その環境レコードの[[OuterEnv]]フィールドを得て、それを新たな環境レコードとして2.に戻ります。
環境レコードの[[OuterEnv]]フィールドは外側の環境レコードが入っています。一番外側はグローバル環境レコードであり、グローバル環境レコードの[[OuterEnv]]フィールドはnull
です。しかし、グローバル環境レコードのHasThisBinding()抽象メソッドは必ず真を返すため、繰り返しはどんなに長くてもグローバル環境レコードを返して終了します。
つまり、this
が評価されるときに何になるのかというのは、現在実行中の環境レコードから外側に向かってHasThisBinding()抽象メソッドが真になる環境レコードを探し、その環境レコードに対してGetThisBinding()抽象メソッドを呼び出した結果となります。それぞれの環境レコードでは抽象メソッドに対して次のような値を返します。([[名前]]はフィールド)
環境レコード |
HasThisBinding() |
GetThisBinding() |
宣言的環境レコード |
fales |
N/A |
関数環境レコード |
[[ThisBindingStatus]]!=LEXICAL |
[[ThisValue]] |
モジュール環境レコード |
true |
undefined |
オブジェクト環境レコード |
false |
N/A |
グローバル環境レコード |
true |
[[GlobalThisValue]] |
[[GlobalThisValue]]フィールドは実装が定めたグローバルスコープにおけるthis
です。グローバルオブジェクトだったり空のオブジェクト{}
だったりします。[[ThisValue]]フィールドにはメソッド呼び出し時のレシーバーが入ったりするのですが、この回答では詳しく解説しません。
この表を見るとわかるように、コードのトップレベルであるモジュール環境レコードとグローバル環境レコードを除いて、this
が外側と異なるのは関数環境レコードの時だけになります。その関数環境レコードの"[[ThisBindingStatus]]!=LEXICAL
"の意味は、[[ThisBindingStatus]]がLEXICAL
と異なれば真に、同じならば偽になると言うことです。ここにアロー関数特有の仕様が関わってきます。
関数環境レコードが作成されるのは関数(funciton)を引数とするNewFunctionEnvironment()抽象操作を呼び出した時で、これは、関数の[[Call]]内部メソッドまたは[[Consturct]]内部メソッドの処理でのみ使われます。この二つは、通常の関数呼び出しとnew
等を用いたコンストラクターによるオブジェクト作成で呼び出されるメソッドです。そして、呼び出されるときの関数によって環境レコードのフィールドが次のように設定されます。
- [[ThisBindingStatus]]: 関数の[[ThisMode]]内部スロットが
LEXICAL
の場合、LEXIACL
になります。そうで無い場合は、UNINITIALIZED
にセットされ、後に[[ThisVlaue]]フィールドが設定されるときにINITIALIZED
に変更されます。
- [[OuterEnv]]: 関数の[[Envirnoment]]内部スロットがセットされます。
関数の[[ThisMode]]内部スロットと[[Envirnoment]]内部スロットは関数そのものが作成されるときに設定されます。関数はOrdinaryFunctionCreate()抽象操作で作成され、このときのthisMode引数(LEXICAL-THIS
またはNON-LEXIACL-THIS
のいずれか)によって[[ThisMode]]内部スロットは変わります。
- thisMode引数が
LEXICAL-THIS
の場合は、[[ThisMode]]内部スロットはLEXICAL
- そうでは無く、関数が厳格モードの場合は、[[ThisMode]]内部スロットは
STRICT
- そうでは無い場合は、[[ThisMode]]内部スロットは
GLOBAL
非厳格モードの場合のみ設定されるGLOBAL
についてはここでは細かく説明しませんが、thisModeがLEXICAL-THIS
になるかどうかが重要になります。対して、[[Environment]]内部スロットはenv引数がそのままセットされます。OrdinaryFunctionCreate()抽象操作が呼びされる時にthisModeに何を設定するかは決まっており、以下のようになります。
- thisMode引数が
NON-LEXICAL-THIS
- 関数宣言(FunctionDeclaration)
- 関数式(FunctionExpression)
- ジェネレーター宣言(GeneratorDeclaration)
- ジェネレーター式(GeneratiorExpression)
- 非同期関数宣言(AsyncFunctionDeclaraino)
- 非同期関数式(AsyncFunctionExpression)
- 非同期ジェネレーター宣言(AsyncGeneratorDeclaration)
- 非同期ジェネレーター式(AsyncGeneratorExpression)
- メソッド定義(MethodDefinition)
- フィールド定義(FieldDefiniion)の初期化子(Initializer)
- クラス静的ブロック(ClassStaticBlock)
- CreateDynamicFunction()抽象操作 ...
new Funciton()
等で呼びされます。
- thisMode引数が
LEXICAL-THIS
- アロー関数(ArrowFunciton)
- 非同期アロー関数(AsyncArrowFunction)
env引数はいずれの場合でも抽象処理の実行中の実行文脈の環境レコードになります。
上記からわかるように、アロー関数と非同期アロー関数のみが例外的にLEXICAL-THIS
になるため、関数の[[ThisMode]]内部スロットもLEXICAL
になり、アロー関数が実行されるときに作成される環境レコードの[[ThisBindingStatus]]もLEXICAL
になります。よって、このアロー関数内でthis
を評価する場合、環境レコードのHasThisBinding()仮想メソッドがfales
を返すため、その外側を探しに行くようになります。これが「アロー関数及び非同期アロー関数ではthis
は束縛されない」という動作がどのような処理なのかの説明です。this
を束縛するのは外側の環境レコードになるため、表現としての正確性は欠けますが、「アロー関数ではthis
が文脈的に束縛される」とも言えることになります。
ひとまず、最初の文に戻ったのですが、補足が二つあります。
まず、関数の[[Environment]]内部スロットに入る環境レコードが「関数が作成された時の環境レコード」であるということです。よく「文脈的(LEXICAL)」という表現を使いますが、これは構文解釈時に静的に決まるという意味ではありません。関数に環境レコードが設定されるタイミングは動的です。なので、関数の中で関数を生成するような場合は、関数が実行されたときの環境レコードが[[Envirnomen]]内部スロットに入り、内部の関数が実行時の環境レコードの外側がその時の環境レコードになります。言ってしまえばクロージャーの仕組みそのものでもあるのですが、作成される時の環境レコードが何になるのかと言うことを理解しているとより深く理解できるかと思います。
もう一つが、関数が作成されるパターンで、フィールド定義の初期化子とクラス静的ブロックが含まれるということです。クラス宣言やクラス式そのものでは環境レコードを作成されません。砕けた表現をすると、クラス宣言やクラス式はスコープを作りません。しかし、その中のメソッド定義では関数が作成され、実行時に関数環境レコードが作成されます。同様に、フィールド定義の初期化子とクラス静的ブロックも、内部でのみ使用される専用の関数が作成され、実行時に関数環境レコードが作成されます。そして、これらの関数の[[ThisMode]]フィールドはSTRICT
(クラスは必ず厳格モードのため)ですので、this
が束縛されます。static
無しの場合はそのクラスのインスタンス、static
有りの場合はクラス(であるコンストラクター関数)そのものです。特にフィールド定義の初期化子は、{}
で囲まれたブロック風でなく、ただの「式」であるため、クラス構文の環境?(そんなものは存在しない)で実行されるように見えますが、実際は初期化子毎に関数が作成され、インスタンスやクラスの生成時(コンストラクター呼び出し時)に実行されます。